こんにちは、鮨ブロガーの、すしログ(@sushilog01)です。
鮨好きならばついつい気になってしまうのが、鮨職人の系譜。
「系譜」とはマニアックな響きですが、実は鮨好きでなくても覚えておいて損はありません。
修行先の仕事を踏まえた上でアレンジを行い、独自の仕事を編み出す…この試みは実に「職人」らしいので、知れば知るほど鮨店に伺う楽しみがアップします。
そこで、今回は「永久保存版」と銘打って、自身が知っている範囲で鮨職人の系譜をまとめます。
すしログ
14,000字以上あります。
なので、疲れたら時間を置いて読んで頂ければ幸いです!
【2024年】3月追記
新店情報をご連絡頂いた方々、誠にありがとうございます。
随時追記してまいりますので、よろしくお願いいたします!
なお、訪問したことのあるお店には記事のリンクを張っておきます(ブログを始める前に訪問したお店も多いので、随時訪問して追加していきます)。
そして、末尾には「参考文献リスト」を付けています。
情報ソースの漏れもありますが、概ねカバーしているので、気になる方はご参考にしてください。
タップできる目次
握り鮨が生まれたのは江戸時代、文政年間(1818年~1831年)です。
握り鮨は200年ほどの歴史があるわけですね。
そして、握り鮨を編み出したとされる最も有名な職人が、華屋與兵衛。
「いやいや、堺屋松五郎でしょう!」と言う説もありますが、二人はともに「江戸三鮨」に数えられました。
「江戸三鮨」とは、華屋(小泉)與兵衛の「與兵衞壽司」、堺屋松五郎の「松が鮨(砂子ずし)」、松崎喜右衛門の「毛抜鮓」の3店です。
敢え無く前の2店は既に閉店(「與兵衞壽司」は1930年に閉店)。
現存するのは「毛抜鮓」(1702年創業)のみとなりますが、こちらは握り鮨ではありません。
しかし、江戸前握り鮨の系譜が途絶えたわけではありません。
「與兵衞壽司」の流れを汲むお店は現在も続いていて、さらに「江戸前鮨三大開祖※」と呼ばれるお店を生み出しました。
※定義・命名は早川光氏によるもので、素晴らしい分類だと私見
「江戸前鮨三大開祖」とは、「江戸三鮨」である「與兵衞壽司」に加えて、「千住みやこ」(1848年創業)と「二葉鮨」(1877年創業)の3軒です。
それぞれ、名人を輩出し、江戸前鮨を守ってきました。
「江戸前鮨三大開祖」の中で現存するお店は「二葉鮨」のみですが、「與兵衞壽司」と「千住みやこ」の流れを汲むお店も現存しています。
…と、1,200字が経過しようとしているところで、歴史の授業のように思われている方も現れるところでしょう(笑)
しかし、ここは重要です。
すしログ
「江戸前鮨三大開祖」が無ければ、現在皆さんが好きな鮨店は無かったかもしれないからです。
それくらい、昭和から平成のお店に影響及ぼしたのが「江戸前鮨三大開祖」です!
まずは、「與兵衞壽司」の流れを汲み、現存する名店2軒です。
最初にご紹介するのは、1879年に日本橋で創業された「吉野鮨」。
「與兵衞壽司」3代目の元で4代目小泉喜太郎氏とともに学んだ吉野政吉氏が初代です。
「吉野鮨」は【トロの握り】の発祥とされるお店です。
2代目の吉野正三郎氏がそれまでは捨てられていた、鮪の脂身であるトロを握りに用いてヒットさせました。
今では当たり前のようにあり、むしろ大人気の中トロ・大トロがそれまでは捨てられていたのですね…
そして、3代目の吉野曻雄氏(1906年生まれ)は鮨職人であると同時に鮨文化の研究者であり、さらに俳優でもある異色の才能を持つ方です(伊丹十三監督作品に多数出演)。
吉野曻雄氏は『鮓・鮨・すしーすしの事典』を記された方です。
この本は鮨通ならばほぼ必ず持っている不朽の名著です。
その後、4代目吉野正二郎氏、5代目吉野正敏氏と続いて現在に至っています。
なお、「吉野鮨」出身の方の鮨店としては、穴子の握りで有名な千駄木の「乃池」があります。
そして、「與兵衞壽司」の流れを汲み現存するもう一つの名店が「㐂(喜)寿司」です。
初代親方の油井㐂太郎氏は「與兵衞壽司」4代目小泉喜太郎氏の元で学んだ方。
初代は明治末期に柳橋の薬研堀にお店を出され、現在の人形町「㐂(喜)寿司」は2代目の油井貫一氏が1923年に開きました(一般的にこちらが創業年とされています)。
その後、油井隆一氏、油井一浩氏と油井厚二氏の兄弟が家族経営で暖簾を守っています。
近年、下記の書籍も出版されました。
そして、「㐂(喜)寿司」で修業した職人さんと言えば、蔵前「幸鮓」の篠原敏之氏がいらっしゃいます。
篠原敏之氏は2代目親方で、初代親方は京橋「幸鮨」で修業され創業は1954年です。
なお、「吉野鮨」と「㐂(喜)寿司」のように家族経営で100年以上続く鮨店は決して多くはありません。
真っ先に思いつくのは、九段下の「寿司政」と神田の「笹鮨」でしょうか。
「寿司政」は1861年(文久元年)に初代の戸張好造氏が、銀座で屋台から始めたとされます。
現在は4代目の戸張太啓寿氏が親方で、5代目の戸張正大氏と暖簾を守っておられます。
ちなみに、「寿司政」出身で「寿司政」の仕事を色濃く伝える職人さんは、金沢「鮨処こいづみ」の小泉英樹氏です(→横浜に移転)。
「笹鮨」は安政4年(1857年)生まれの初代・取出藤九郎氏が17歳で「與兵衞壽司」に出前待ちとして奉公に入り、その時の兄弟子に認められたため独立し、大伝馬町辺りで屋台の鮨屋を始めたそうです。
その後、取出政一氏と弟の取出キョウジ氏、取出一郎氏、取出隆二氏と現在まで続いています。
神田にお店を構えたのは取出キョウジ氏で、創業は1948年とされています。
「江戸前鮨三大開祖」に戻りましょう。
今は無き「千住みやこ」の流れを汲むのが「弁天山美家古寿司」です。
「弁天山美家古寿司」は1866年に伊藤久助氏によって創業されました。
その後、内田金七氏、内田竹三郎氏、内田栄一氏、内田正氏、山下大輔氏と続いています(内田正氏の長女の中川晶子氏が6代目女将)。
「弁天山美家古寿司」は「江戸前仕事の百貨店」のような鮨店です。
個人的に、予約困難店を巡るよりも「弁天山美家古寿司」を一度訪問した方が鮨の勉強になると思います。
そして、「弁天山美家古寿司」から分かれたのが、現在の浅草橋にある「美家古鮨本店」です。
こちらは「握りの神様」と呼ばれた加藤博章氏が第二次世界大戦前に創業したお店です。
加藤博章は大戦中に徴兵されて閉店を余儀なくされ、戦後の1950年に改めて開店されたと言われます(鶴八の師岡幸夫氏の著作『神田鶴八鮨ばなし』より)。
「美家古鮨本店」は加藤祐宏氏、加藤章太氏と続いています。
そして、加藤博章氏の有名なお弟子さんは、「鶴八」の師岡幸夫氏と「銀座鮨わたなべ」の渡部佳文氏です。
渡部佳文氏は1960年生まれで、15歳から鮨の修業に入り、26歳の時に加藤博章氏と出会ったそうです。
渡部親方は伝統的な仕事だけでなく、独自性の高い仕事も編み出されているのが凄いところ。
個人的に隠れた名店だと確信しています。
「鶴八」の師岡幸夫氏は1930年生まれの方で、19歳から加藤博章氏に10年間ほど師事し、1959年に独立されました。
師岡幸夫氏のエピソードは大変面白いので、鮨好きならば『神田鶴八鮨ばなし』は一読の価値があります。
その後、お弟子さんの田島道弘氏が1998年より2代目を襲名しましたが、2017年12月に「鶴八」が一時閉店したため独立されて、2018年7月に「鮨處はる駒」をオープンされました。
「鶴八」は2018年4月に営業を再開し、3代目を襲名されたのは石丸久尊氏です。
石丸久尊氏は16歳の頃から師岡幸夫氏のもとで16年間修業され、1982年に暖簾分けが許され、「新橋鶴八」の親方となった方です。
石丸久尊氏のお弟子さんには、「新橋鶴八」の2代目親方である五十嵐寛和氏や「新ばし しみづ」の清水邦浩氏がいます。
清水邦浩氏は前述の『神田鶴八鮨ばなし』に感銘を覚えて、18歳の時に手紙を送り、弟子入りを懇願したそうです。
しかし、その時点では空きがなかったため「新橋鶴八」を紹介されて、19歳で石丸久尊氏の元で修業されました。
その後11年間の修業を経て1999年にご自身のお店を開き、現在も人気を誇っています。
個人的に、「パンチのある赤酢のシャリ」を世に広め人気を高めたのは、清水邦浩氏だと思います。
ちなみに、清水邦浩氏は叩き上げの職人で、開店時も大変な苦労をされたようですが(物件を探す間は肉体労働で資金を貯めるなど)、最近の鮨の専門学校には肯定的な考えを取られています。
「短期間の修業では成就しない」と言う前提のもとに、「叩き上げの方がかっこいいという考え方は、もう捨てた方がいいかもしれない」と仰っています(引用元:Foodionのインタビュー記事)。
そして、清水邦浩氏の元で修業された有名職人は多数います。
京都の「鮨まつもと」(2005年)の松本大典氏、「鮨竹」(2014年)の竹内史恵氏がいらっしゃいます。
さらに、「鮨まつもと」から、5年間修業した星山孝史氏が独立され、大阪に「鮨ほしやま」(2012年)を開きました。
江戸時代に生まれた生粋の江戸前鮨が今や京都、大阪にまで広がっているのは、感慨深く感じます。
さて、話を少し遡り、「江戸前鮨三大開祖」に戻ります。
先にご紹介した「與兵衞壽司」と「千住みやこ」は閉店していますが、もう一つの「二葉鮨」は現存しています。
1877年に創業された「二葉鮨」は、今も東銀座で老舗の貫禄をたたえています。
建物の貫禄だけでなく、シャリにも貫禄があり、戦前から味を変えていないと言うシャリは赤酢と塩のみで調味し、砂糖不使用です。
初代は小西道太郎氏で、2代目の小西力蔵氏の頃に鮨職人の派遣を行う「部屋」を率いていました。
「部屋」の名は「二葉会」。
最盛期には90人以上もの職人を抱え、間違い無く大正~昭和の鮨文化の向上に貢献しました。
「二葉会」が無かったら、今の鮨は別の形になっていたように感じるほどです。
「二葉鮨」出身の有名職人と言えば、「二葉鮨四天王」の名が挙げられます。
「四天王」って、現代的に言うと、ちょっと中二病なネーミングですが、僕は好きです。
「二葉鮨四天王」を構成する職人は、藤本繁蔵氏、中田一男氏、新家安蔵氏、岡田源四郎氏の4名。
それぞれのお店は下記の通りです。
- きよ田(1963年):藤本繁蔵氏
- 奈可田(1950年):中田一男氏
- 御慶ずし(1933年):新家安蔵氏
- 源(1950年代):岡田源四郎氏
「御慶ずし」はカフェの名物女給であった「お慶さん」から資本調達した北大路魯山人氏がプロデュースした鮨店です(現在のおけい寿司の前身)。
そして、四天王の中でも特に生き様が格好良いのが、藤本繁蔵氏です。
なにせ「流しの職人」で、死ぬまで自分の店を持たず、名店を渡り歩いて握ったと言う方。
通り名も凄く、「鮨の天皇」あるいは「鮨の神様」!
藤本繁蔵氏の元では「きよ田」2代目の新津武昭氏、赤坂「喜久好」の清水喜久男氏、要町「すゞ木」の鈴木民部氏、六本木「山路」の館野弘光氏、などが修業されましたが、「きよ田」を除いて全て閉店しています。
「きよ田」は新津武昭氏の後、木村正氏、吉沢範彦氏と続いています。
「きよ田」出身で最も有名な職人さんは、唐津「つく田」(1992年?)の松尾雄二氏です。
唐津焼の大家である中里隆氏が懇意にした鮨店で、全国から人を集める名店で、現在は2代目の松尾文平氏と切り盛りされています。
また、広島にもお弟子さんのお店があります。
お店の名は「吉鮨」で、親方は吉村憲治氏。
昔は写真撮影禁止で知られる広島で知る人ぞ知る鮨店でした。
そして、三人目が「あら輝」の荒木水都弘氏。
荒木水都弘氏は日本で大成功された後、ロンドン、香港と渡り歩き、「寿司いずみ」での修行の後に新津武昭氏に弟子入りしようとして叶わなかったものの、「週に1回仕込みを見る」と言う対応を許され、師事されたそうです。
「あら輝」の系譜としては、市川克海氏の「鮨いちかわ」(上野毛から南麻布に移転)、鈴木太郎氏の名古屋「浜源」、駒田権利氏の伊勢「こま田」、堀内幸継氏の京都「鮨 嘉瑞」(紹介制)、行天健二氏の福岡「鮨 行天」など、人気店が目白押しです。
話を「二葉鮨四天王」に戻します。
四天王の中で数多くの職人を育てられた職人さんが、銀座「奈可田」の中田一男氏です。
「奈可田」は1950年にオープンし、2015年まで営業していました。
「久兵衛」(1935年)、「与志乃」(1949年)とともに「銀座の鮨御三家」と称されました。
お弟子さんは以下の通りです。
- 札幌「すし善」(1977年):嶋宮勤氏
- 赤坂「奈可村」(1979年):中村征夫氏
- 六本木「奈可久」(1979年):鈴木隆久氏
- 塩釜「鮨しらはた」(1986年):白幡邦友氏
- 銀座「鮨青木」(1986年):青木義氏(初代)
- 銀座「鮨からく」(1989年):戸川基成氏
- 向島「うを徳」(1964年):小宮健一氏(2代目)
- 福岡「鮨田可尾」(1997年):高尾友之氏
- 港南台「鮨渥美」(1999年):渥美慎氏
- 吉祥寺「さき田」(2017年):崎田康太郎氏
そして、鈴木隆久氏の「奈可久」ご出身の職人さんも多数います。
- 銀座「奈可久」(閉店):齊藤信雄氏
- 新潟「鮨 奈可久 星野」(2006年):星野貴明氏
- 六本木「材木町 奈可久」(2009年):木戸隆文氏
- 銀座「銀座 鮨 奈可久」(2018年):村上亀氏
【鈴木隆久氏が編み出した鮨の仕事】
- 車海老の黄身酢オボロ漬け
- 薄切りにした鯖の3枚づけ(握り)
- コノシロの雪花菜漬け
「鮨青木」さんも有名な職人さんを輩出されています。
【青木義氏が編み出した鮨の仕事】
- 甘鯛や鱧など関西の魚の使用
ちなみに、2代目の青木利勝氏は後述する「与志乃」で修業されました。
「すし善」出身の職人さんは北海道のみならず、全国に極めて多数いらっしゃいます。
地元の北海道では、嶋宮勤氏が「すし善」を開くまでは江戸前鮨のお店はありませんでした。
今や札幌は全国屈指の鮨の街になっていますが、パイオニアたる嶋宮勤氏の功績は計り知れません。
出身店はカバーしきれませんが、自分がざっと頭に浮かぶお店だけピックアップします。
- 札幌「かね善」(2020年):大金有三氏
- 長浜「京極寿司」(1953年):眞杉国史氏(3代目)
- 函館「梅乃寿司」(1963年):金丸正善氏(2代目)
- 青山「青山すし泉」(2000年):小泉恵一郎氏
- 旭川「鮨みなと」(2001年):中港大将氏(2代目)
- 銀座「青空」(2006年):高橋青空氏(修行歴はすきやばし次郎の方が長い)
- 魚津「鮨大門」(2012年):大門太郎氏
- 札幌「寿しひでたか」(2012年):山田英貴氏
- 福井「鮨十兵衛」(2013年):塚田哲也氏(2代目)
- 札幌「すし さか井」(2015年):酒井博幸氏
「かね善」は創業年こそ直近ですが、親方の大金有三氏は長年すし善本店の店長を務められてきた方です。
1877年創業の二葉鮨の系譜を追っていくと、「奈可田」さんの功績の大きさを実感しますね。
「奈可田」さんは「銀座の鮨御三家」と呼ばれましたが、他の2軒も鮨ヒストリーで功績の大きい名店
です。
まずは、「与志乃」からご説明しましょう。
戦後の鮨シーンに多大な影響を及ぼし、今なお変革を続ける鮨店、「すきやばし次郎」。
「すきやばし次郎」の小野二郎氏は1925年生まれの現役職人で、かつて「銀座の鮨御三家」と呼ばれた「与志乃」(1949年)で修業されました。
「与志乃」の初代親方である吉野末吉氏は「握りの名人」と称され、小野二郎氏の他に、同じくレジェンド級職人の「鮨水谷」(閉店)の水谷八郎氏(1947年生まれ)、「鮨松波」の松波順一郎氏(1940年生まれ)など多くの名人を輩出されました。
【吉野末吉氏が編み出した鮨の仕事】
- 手巻き寿司
「鮨松波」の松波順一郎氏は手数の多い本手返しで流麗に握る職人さんで、お店の内装は見事です。
ちなみに、お兄さんは浅草で有名な高級店「ステーキハウス松波」を経営されています。
「すきやばし次郎」は小野二郎氏がつけ場に立っていた「与志乃 銀座店」を継承する形で1965年に誕生しました。
新たな鮨の仕事を幾つも生み出された功績は大きく、映画化やミシュラン返上などのエピソードを差し引いても偉人と言える職人だと思います。
【小野二郎氏が編み出した鮨の仕事】
- 人肌温のシャリ
- シャープな味わいの米酢のシャリ
- 藁炙りの鰹
- 茹で上げの大車海老
- 塩揉みしない蛸の仕込み
- 鮑の塩蒸し
- 炭火で炙る海苔
息子さんたちも鮨職人で、長男の小野禎一氏は「すきやばし次郎」で二番手として腕を振るい、次男の小野隆士氏は「すきやばし次郎六本木店」の親方です。
そして、今は無き「次郎よこはま店(すきやばし次郎の暖簾分け店)」の親方が水谷八郎氏です。
水谷八郎氏は2005年に新橋で「鮨水谷」として完全に独立されましたが、2016年10月末に引退され閉店しました。
「すきやばし次郎」出身で最も有名な職人さんは、「青空」(2006年)の高橋青空氏ではないかと思います。
そして、「ます田」(2014年~2019年→2020年に台北に移転→2022年1月に青山に移転)の増田励氏、「鮨みずかみ」(2018年)の水上行宣氏、「鮨あお」(2020年)の岡﨑亮氏がいらっしゃいます。
なお、「すきやばし次郎」ご出身の方は、今の時代にあって1店での修行歴が長い点が特徴かもしれません。
「すきやばし次郎」のみのカウントで、高橋青空氏は12年、水上行宣氏は15年、増田励氏は9年、岡﨑亮氏は10年なので。
長い修業の証を体感させてくれる職人さんばかりです。
そして、「鮨水谷」出身の職人さんは少ないように感じますが、僕が伺った範囲では3人いらっしゃいます。
まずは、横浜「常盤鮨」の林ノ内勇樹氏。
「常盤鮨」は1952年から続く老舗ですが、3代目の林ノ内勇樹氏は「鮨水谷」で7年修業され、「ます田」立ち上げ時に1年手伝われていた経歴です。
2人目はバンコク「鮨いちづ」の戸田陸氏。
戸田陸氏は水谷氏に師事した後、後述する「日本橋蛎殻町すぎた(日本橋橘町都寿司)」の杉田孝明氏のもとで修行されました。
戸田陸氏の握りは赤酢のシャリなので、系図には載せていません。
そして、3人目は、築地「鮨桂太」の青山桂太氏。
青山桂太氏は札幌にある田村光明氏の「鮨菜 和喜智」で修業を開始された後、「鮨水谷」で2年半、その後、石川太一氏の銀座「鮨 太一」で3年半修業されたと言う一風変わった経歴です。
青山桂太氏の握りは赤酢のシャリなので、系図には載せていません。
「すきやばし次郎」の小野二郎氏はご自身も卓越した鮨職人でありながら、お弟子さんも腕が立つ方が多いところが凄いです。
「すきやばし次郎」出身の方の握りを頂くと、「修行不要論」が軽薄である事を実感します。
さて、次は誰もが知る鮨の名店、銀座久兵衛の系譜に移ります。
「銀座の鮨御三家」と呼ばれ、今も圧倒的な知名度を誇る銀座の名店「久兵衛」。
昭和初期に鮨の近代化を成し遂げた初代親方こそ、今田壽治氏です。
【今田壽治氏が編み出した鮨の仕事】
- 軍艦巻き
今田壽治氏は稀代の食通である北大路魯山人氏が高く評価した鮨職人で、「贅沢寿司として文句なし」「性闊達で、豪放をなす」と評しました。
その寵愛っぷりはあたかも息子のようで、自身の器を与えるとともに、全国を一緒に食べ歩きして美食を教えたと言います。
そして、【軍艦巻き】の発明者こそが、今田壽治氏です。
ただ、今でこそ回転寿司店でもメジャーな【軍艦巻き】ですが、当時は斬新すぎて、なんと「ゲテモノ」と同業の職人から酷評されたそうです。
今田壽治氏の修行先は1855年(安政2年)創業の老舗である木挽町「美寿志」。
「美寿志」は鮨好きならば知っている伝説の名店です。
今田壽治氏の他にも「寿司幸本店」の2代目である杉山宗吉氏や日本橋「寿司金」の鈴木守氏が修業されました。
- 銀座「久兵衛」(1935年):今田壽治氏
- 日本橋「寿司金」(1900年初頭):鈴木守氏
- 銀座「寿司幸本店」(1885年):杉山宗吉氏(2代目)
なお、今田壽治氏は16歳から修行に入り、10年間の修行を経て26歳で独立されたそうです。
これは結構ビックリですよね。
現代でも20代の若い独立が目立ちますが、今田壽治氏は若手独立の先駆けと言えます(修業開始の年齢が今よりも早く、修業期間も長いですが)。
ちなみに、北大路魯山人氏が絶賛した鮨職人はもう一人います。
それは「新富鮨 新橋支店」の矢沢貢氏。
魯山人は「みっちゃん」と呼び、「握り寿司の名人」として激賞しています。
「新富鮨新橋支店」は大正初期に和田富太郎氏が屋台として始めた、銀座の「新富寿し」の支店です。
「新富寿し」は2017年に閉店してしまいましたが、技を完全に引き継ぎ、時代に合ったアレンジをされる職人さんが「み富」の三橋克典氏です。
話を銀座「久兵衛」に戻すと、現在、鮨業界における一大流派となっています。
複数の店舗を展開していて、銀座本店+銀座新館以外に、オークラ東京店、京王プラザホテル店、ホテルニューオータニ本館、ホテルニューオータニタワー店、帝国ホテル大阪店があります。
それ故に出身者は多く、「鮨のアカデミー」のような性質を持っています。
最も、鮨の専門学校よりも遥かにハードですが。
極めて多くの鮨職人を輩出しているため、一時期は「Q系」などと呼ばれました。
「久兵衛」の有名な出身者は以下の通りです。
こちらの系譜もカバーしきれないので、一部になることをご了承ください。
- 六本木「兼定」(1980年代?):中村三男氏
- 西大島「與兵衛」(オープン年不明):鈴木信夫氏
- 銀座「鮨かねさか」(2000年):金坂真次氏
- 渋谷「秋月」(2001年):秦英樹氏
- 浅草「鮨 久いち」(2005年):出口威知郎氏
- 溜池山王「寿し処寿々」(2005年):藤居陽一郎氏
- 六本木「拓」(2005年):佐藤卓也氏
- 金沢「鮨みつ川」(2005年):光川浩司氏
- 下丸子「鮨 波づき」(2011年):佐藤亨成氏
- 神楽坂「鮨 心」(2012年):大場勉氏
- 銀座「鮨 竜介」(2015年):山根竜介氏
- 銀座「すし縁」(2015年):遠藤尚人氏
- 銀座「鮨あらい」(2015年):新井祐一氏
- 築地「すし佐竹」(2016年~2020年):佐竹大氏
- 天王寺「すし丈」(2017年):増田光俊氏
中でも「鮨かねさか」は「かねさかグループ」を形成していて、国内のみならず国外の鮨シーンにも影響力を持っています。
国内はパレスホテル東京、青山グランドホテル、The Okura Tokyo、神戸オリエンタルホテルに展開し、海外では”Shinji by Kanesaka”ブランドでシンガポールに2軒、マカオに1軒出店しています。
採用サイトを見ると「世界にある約66の名だたるホテルからオファーが来ています」との事です。
また、支店だけでなく系列店も展開していて、「すし家」、「すし家一柳」、「赤坂 鮨 一新(関東ITソフトウェア健康保険組合)」などがあります。
さらに、「鮨 一新」からグループ内独立をされた「すし家 祥太」は急速に人気を高めています。
なお、「久兵衛」と「鮨かねさか」については、中々興味深いニュースがありました。ご参考までに。
「鮨かねさか」は出身者も多く、「銀座いわ」岩央泰氏、「鮨まつもと」松本瑞穂氏、「鮨ふじ田」の藤田真一郎氏などで、最も有名な方は「鮨さいとう」の齋藤孝司氏でしょう。
齋藤孝司氏は2004年33歳の時に「鮨かねさか 赤坂店」の親方になり、移転時に「鮨さいとう」に改名されました。
現在は会員制となり、2020年に二番手の橋場俊治氏が隣に「鮨しゅんじ」として独立されました。
余談ですが、僕は予約を持っていたのですが、冠婚葬祭のためにリスケせざるを得ず、お電話したところ「会員制に移行後でも大丈夫です。お電話してください!」と言われたものの、会員制移行後に何度か電話しても梨のつぶてでした。
これはあまりにも不誠実なので、流石に如何なものかと思いました。
齋藤孝司氏は親方の金坂真次氏と同様にビジネスにも長けていて、クアラルンプールに支店を出され、国内ではLDHと組んで支店を展開されています。
現在は中目黒に「鮨つぼみ」と「3110NZ by LDH Kitchen」を出されています。
クオリティの高い鮨を、基本的に良心的な価格で出されていて、素晴らしいグループだと思います。
今後の鮨シーンを牽引する職人さんを多数輩出する一門でしょう。
その後、2024年3月に、麻布台ヒルズマーケットに「鮨さいとう麻布台」をオープンされました。
独断と偏見でニューウェーブの流派をピックアップします。
まずは、「小笹寿し」。
創業自体は1950年なので結構な歴史がありますが、元新聞記者の寿平八郎氏が開いたオーナー店で、特定の系譜に属さずに人気店に躍り出ました。
寿平八郎氏は新橋に開店した後、1954年に銀座に移転しました(1982年に職人の相次ぐ独立により閉店)。
そして、その頃勤務されていた凄腕の職人が岡田周三氏で、1973年に下北沢「小笹寿し」を任され、現存する名店へと育て上げました。
下北沢「小笹寿し」は現在、西川勉氏が暖簾を守っています。
さらに、岡田周三氏の元で修行をされたのが、桜新町「喜よし」(閉店)の根津秀俊氏、神泉「小笹」の佐々木茂樹氏、寺嶋和平氏。
寺嶋和平氏は当時点在していた支店を渡り歩き、下北沢「小笹寿し」でも握られた後、1995年に独立して銀座「小笹寿し」を復活。
お弟子さんには、「西麻布小笹すし」(閉店)の新垣正次氏、築地「鮨もりなり」の岡崎守成氏、札幌「○鮨」の二代目・川崎純之亮氏らがいます。
かつて銀座以外に、下北沢、原宿、日吉に支店を持ち一斉を風靡した「小笹寿し」。
今も確かに暖簾が続いていて、魅力的な仕事を楽しませてくれます。
ニューウェーブの流派として真っ先に名前が挙がるのが、「すし匠」でしょう。
「すし匠」は中澤圭二氏が1989年に創業した「すし匠 さわ」が前身で、1993年に現在の土地に移転されました。
中澤圭二氏も様々な仕事を編み出され、古典の中にモダンなセンスを採り入れられた功績は大きいです。
酒肴と握りを織り交ぜる「すし匠スタイル」は余りにも有名で、「飲み鮨」文化を広めた職人と言えます。
代表的な酒肴の【鮟肝と奈良漬け】や【中落ちと刻み沢庵のおはぎ】は中澤圭二氏の発明ですが、それを知らずに出している系譜外の職人は全国に数多いらっしゃいます。
なお、代名詞の一つとなっている【黄身酢オボロをまぶした車海老】は、実は前述の通り「奈可久」の仕事です。
昔むかし、中澤圭二氏は「奈可久」に食べに行かれ、自分のお店でも出すようになったそうです。
職人が先達の職人の仕事に影響を受けて、より幅広い層に広がっていくのは素晴らしいことですね。
換骨奪胎こそアートの基本です。
今や巨大なグループとなっているので、漏れがあるかもしれませんが…一般的に知られているグループは下記の通りです。
- 秋田「すし匠」(2001年):佐々木啓仁氏
- 表参道「匠すし昴」(2002年):松本卓氏
- 六本木「すし匠まさ」(2004年):岡正勝氏
- 赤坂「すし匠齋藤」(2006年):齋藤敏雄氏
- 月島「すし浅尾」(2007年):浅尾英二氏
- 代々木上原「すし久遠」(2009年):野口智雄氏
- 新宿「匠達広」(2009年):西達広氏
- 新宿「すし岩瀬」(2012年):岩瀬健治氏
- 麹町「一番町てる也」(2012年):飯田照也氏
- 福岡「鮨久保田」(2012年):久保田真介氏
- 青山「匠 進吾」(2013年):高橋進吾氏
- 六本木「鮓村瀬」(2014年):村瀬信行氏
- 名古屋「あま木」(2015年):天木雅章氏
- 銀座「鮨あらい」(2015年):新井祐一氏
- ハワイ「Sushi Sho」(2016年):中澤圭二氏
- 不動前「すし岩澤」(2016年):岩澤資之氏
- 新宿「匠 誠」(2017年):志村誠氏
- 新宿「鮨ばんど」(2017年)
- 恵比寿「匠鮨おわな」(2017年):小穴健司氏
- 赤羽橋「鮨すが弥」(2018年):菅谷崇之氏
- 広尾「すし良月」(2019年):前岩和則氏
- 新宿「新宿御苑すし西」(2019年)
- 六本木「寺子屋すし匠」(2023年):杣木辰茂氏
- NY「Sushi Sho -New York-」(2024年):中澤圭二氏
2023年11月に、旗艦店の一つ、四谷「すし匠」が麻布台ヒルズに「寺子屋すし匠」をオープン。
そして、2024年3月、中澤氏はハワイ店を弟子に任せ、ニューヨークに新店をオープン。
しかも、OakaseではなくOkimariの魅力を伝えようとされている点が崇高です。
そして、現在の鮨を語る上で外せないのが「海味」。
2代目親方の長野充靖氏は出色の鮨職人として知られましたが、早逝されてしまいました。
しかし、現在圧倒的な人気を博す鮨職人を育てられました。
まず、筆頭が長野県諏訪郡原村の「中野屋」の中山洋介氏。
そして、福岡「鮨さかい」の堺大悟氏。
堺さんは僕は日本屈指の握りの一つだと確信しています。
卓越した握りと仕事の技術です。
さらに、3代目親方を担っていた外苑前「鮨 龍次郎」の中村龍次郎氏、鹿児島「名山きみや」の木宮一樹氏(宮崎「一心鮨光洋」の木宮一高氏の三男)、「東麻布天本」の天本正通氏と、錚々たる顔ぶれです。
2022年3月に開業された「すし 田いら」の平公一氏も評価を高めています。
また、昨今の赤酢のシャリのブームを勢いづけた存在として、「鮨とかみ」と「はっこく」の佐藤博之氏の名が挙げられます。
佐藤博之氏はグローバルダイニングでサービスマンとして勤務した後、25歳で渋谷「秋月」(上述の久兵衛の系譜)に修業に入り、2013年に築地の有名仲卸である「やま幸」が経営する銀座「鮨とかみ」の親方に就任されました。
赤酢の酸味がバシッと利いたシャリは鮪との相性が抜群。
流石、「やま幸」が母体の鮨店だと感じさせられました。
その後、佐藤博之氏は「鮨とかみ」を退職された後に世界を放浪され、2018年2月に銀座「はっこく」を開店。
佐藤博之氏は“鮨のグランメゾン”を目指しているそうで、正に鮨文化の多様化に貢献している職人だと思います。
「鮨とかみ」時代には赤坂「きざ㐂」の木崎倫氏を、銀座「はっこく」時代には三軒茶屋「鮨うがつ」の佐々木強氏を育てられています。
さらに、外国人職人も育成されている点が凄い。
デンマーク人のMads Battefeld氏はコペンハーゲンに「Sushi Anaba」をオープンされ、予約困難店となっているそうです(ドイツ在住の鮨好きの方からClubhouseで伺いました)。
さて、この記事も遂に最後になります。
最後に、僕が「名店」だと思う鮨店の系譜を記します。
その職人さんとは、「日本橋蛎殻町すぎた」(2004年〜)の杉田孝明氏です。
現在、圧倒的な人気を誇り、日本屈指の握りを生み出す名職人さんですね。
杉田孝明氏は1887年創業の老舗・日本橋蛎殻町の「都寿司」の暖簾分けである、東日本橋の「都寿司」が廃業する際、屋号を継ぐ形で2004年にオープンされました。
「日本橋橘町都寿司」として10年ほど営業された後、移転に際して現在の屋号である「日本橋蛎殻町すぎた」に変えられました。
もともとの修行先が老舗の街場寿司であったところ、日本屈指の最先端の握りに昇華された杉田孝明氏の腕には驚嘆を覚えます。
古典的な仕事を先に進め、新たな仕事を生み出し続ける杉田孝明氏。
予約さえ取れればな…と言うのが唯一の悩みです。
何度も電話予約を試みましたが、本当に繋がりません(笑)
ただ、お弟子さんが続々と独立されているので、今後が大いに楽しみな一門です。
橋本裕幸氏の「鮨はしもと」(2014年)はオープン早々に予約困難になり、今や東京を代表する人気店の一つ。
2021年11月に、お弟子さんの野口和暉氏が福岡に「枯淡」をオープン。
2022年6月に、二番手の紺野隆氏が移転前の場所に「鮨 美幸」をオープンされました。
バンコクの「鮨いちづ」の戸田陸氏も「日本橋蛎殻町すぎた」出身で、海外で工夫されています。
そして、2021年8月には安井大和さんが「鮨処やまと」をオープンされ、こちらも即座に予約困難化しました。
杉田親方の仕事を継承し、独立早々に完成度の高い鮨を握られているので、人気の理由に納得です。
さて、いかがでしたでしょうか?
すしログ
楽しんで頂けたなら幸いです!
系譜は鮨の歴史と進化を伝えてくれるので、鮨好きとしては胸アツになりますよね。
系譜をまとめるに当たり、山田五郎氏の『銀座のすし』に大変助けられました。
後ほど参考文献リストに挙げますが、鮨職人と鮨好きは必読です。
今の時代に忘れらがちな鮨にとって大切なものを伝えてくれますので…。
やや乱筆となってしまい恐縮ですが、随時修正と追記を行ってまいります。
今後ともよろしくお願いします。
鮨ブロガーであり、もはや鮨文化研究者の、すしログ(@sushilog01)でした。
極めてマニアックなリストですが、ご参考までに自宅の「鮨文庫」より記載します。
既に自身の記憶にしている文献も多数あるため、全部挙げきれず申し訳ございません。
江戸前にぎりこだわり日記―鮨職人の系譜(川路 明)
鮓・鮨・すしーすしの事典(吉野 昇雄)
すし技術教科書 江戸前ずし編(旭屋出版)
すし通(永瀬 牙之輔)
銀座のすし(山田 五郎)
魯山人の料理王国(北大路魯山人)
東京すし通読本(エイ出版社編集部)
日本一江戸前鮨がわかる本(早川 光)
「㐂寿司」のすべて(中原 一歩)
銀座久兵衛 こだわりの流儀(今田 洋輔)
鮨のすべて(今田 洋輔)
神田鶴八鮨ばなし(師岡 幸夫)
江戸前鮨 伝統の技と真髄(清水 喜久男)
浅草寿司屋ばなし―弁天山美家古 (内田 栄一)
これが江戸前寿司(内田 正)
すきやばし次郎 旬を握る(里見 真三)
鮨屋の人間力(中澤 圭二)
旅する江戸前鮨「すし匠」中澤圭二の挑戦(一志 治夫)
「すし」神髄(杉田孝明)
すし本については、より詳しい記事もございます。
本記事のリンクには広告がふくまれています。
初めまして 興味深い内容でした、ありがとうございます。
私も修行が久兵衛で15年ほど務めさせて頂き今は神楽坂 鮨 心にて
2012より独立しております、一応お伝えしたくメールしました。
コメントを頂き、ありがとうございます!
追記させて頂きました。
チャート作成のソフトが現在使えなくなっているため、本文のみとなり申し訳ございません…
コメント失礼します!昨年から何度も何度も繰り返し読ませて頂いています。twitterで凪と羊味味坊の辣油にコメントさせて頂いた者です。
自分も鮨が好きで地道に食べ歩きをしていますが、鮨の歴史、文化をここまで分かりやすく集約して下さっているのでとても勉強になります。
先日、福岡の江戸心 山ぼうしというお店に行きました。現在62歳の主人の五月女真一氏は浅草生まれの浅草育ちで美家古鮨本店で修業し、加藤博章氏の最後のお弟子だそうで渡部氏と直接の面識はないとの事ですが、加藤氏が渡部氏に唯一継承しなかった鮑の塩蒸しを自分は教えて貰ったと仰っておりました。
もし福岡に来られる機会がまたありましたら、此方も訪れてみて下さい!参考になれば幸いです。
ありがとうございます!!
応援のお声、本当に励みになります。
福岡の山ぼうしさんは美家古鮨本店のご出身でしたか。
初耳だったので、嬉しい情報です。
新店も魅力的な土地ですが、やはりベテラン職人さんの技も感じたいですよね。
これからも幅広く探求してまいります!
こんにちは。
わかりやすくて、大変読み応えのある文章でした。古いお寿司屋さんは全く知らなかったので、勉強になりました。
新しいお店になるのですが、最近も加筆されてらっしゃるので海味出身の「田いら」も是非加えてくださると嬉しいです。大将の人柄も良くて、肩肘を張らずにいただける素敵なお店です。
系譜がどんどん増えていくので追跡も大変かと思いますが、更新これからも楽しみにしています。
白石様
励みになるお言葉を頂きまして、ありがとうございます!
ご連絡頂いた「田いら」さんは追記しました。
仰るとおり追いかけるのが中々大変ですが(笑)、鮨業界のために頑張ります!